『明治大正史』という作品で、日本人を定義した民族学者柳田國男は、日常的と非日常的なことの分別について書いた。それは、「ハレ」と「ケ」ということである。昔、村人は田んぼや畑で長時間働き、町人は市役所や銀行、現在の会社のようなところで計算したり、重要な報告書を書いたりしていた。
確かに、柳田氏の時代から娯楽は大きく変化してきたが、人々は、現在の広場のような中心場所に集合し、楽しめることが、昔と同じく行われているといえる。
現在まで日本の留学で祭りへ行く機会が多かった。3年前に初めて来日した頃、神楽坂の阿波踊り祭りを見て、自分自身で立って踊るほど楽しい時を過ごした。後は、去年の9月下旬から留学を始めてから、友達や恋人と一緒に府中の「くらやみ祭り」へ行って楽しんでいた。「わっしょい!」と叫んでいる神輿(みこし)を運ぶ人達とか、神社で新たな幸運のためにお祈りをする老若男女、お菓子や肉料理・魚料理の屋台店から空気に浮かんでいる匂い。そういうことは、現在の祭りに欠かせないものだ。
祭りは「祭る」という動詞から由来し、宗教的な意味も含まれているのは確かなことだ。神道の八百万の神々に、より優れた稲作や麦作の成功、安全出産、重病からの防衛や救出などのことを毎日祝詞を挙げ、恩恵を得て感謝の気持ちを自然に伝える。しかし、祭りは、ただ屋台の食事を味わい、幸運のために祈ることだというわけではないと思う。
どうしてかというと、特に忙しい人達にとって友達や家族、親戚とともに楽しめる機会だからである。特に現代社会の中で通勤・通学しているので、我々の仕事や学習で強い感情で揺れている心の悩みを外に解き放ち、皆と自分の悩み事を伝え、悩み事から救われるだろう。毎日、朝早く起きてからコーヒーやお茶を入れる代わりに、住んでいる辺りでは一時的な演奏が起こったら、多分珍しく興味深く思うのではないだろうか。そのため、祭りは人々を集合させ、思いや心を落ち着かせる幻想的と神秘的な力を持っていると思う。
もう一つのことを少し紹介したい。祭りは日本独特のものではないということだ。実は、世界各国は祭りという文化に溢れている。無論、セルビアは例外ではない。例えば、日本の氏神(うじがみ)と同じくセルビアの一族には聖人として偉大なる人のために祭りを捧げる習慣がある。その時、親戚や友達を誘うことが多く、学校や職場を休める。実は、偉大なる人のための祭りは「スラヴァ」と呼ばれ、キリスト教以前のスラヴ族多神教から由来する。現在は、その伝統はキリスト教(厳密に言えば、キリスト正教会)と一致しても、祭りの意味は海外にもあり、現在までも継がれているのは不思議ではないだろうか。
ただ、セルビアには日本と同様、宗教的なことから少し離れていった祭りもあると思う。例えば、首都ベオグラードで毎年8月に行われているビールと音楽の祭り「ベオグラード・ビール祭り」もある。しかも、デスポトヴァツというセルビア中心部の町では、中世から伝承してきた騎士道を捧げる「Just Out」という祭りもある。祭り言っても、裏側には宗教の部分は一つもない。さらに宗教でなく、主に音楽や絵画、文学、伝統の踊りなどの文化を捧げるお祝いが全国で行われている。もし、全ての祭りを見るためにセルビア全国を旅行したら、きっと一年の休みになるかもしれない。しかし、どのような祭りがあっても、一つのことが明確に目立つ。
それは、人との出会いということである。世界中の文化や宗教、伝統が皆異なっているが、最も目の前にはっきり表れるのは、ひとの平等な集合という共通点である。日本全国の神社の祭りにしろ、町や田舎の広場で行われている祭りにしろ、宗教には関係があるかないかとでも、たった一つの恩恵をもらう。それは、より優れた人間関係への希望である。それは「祭り」の本当の意味だと思っている。