
「新疆ウイグル自治区」と聞いて、どんな風景を思い浮かべるだろう。
強制収容所、民族弾圧、監視カメラ、暴動——。日本で暮らしていると、そうした言葉とセットで語られるこの土地は、どこか遠くて、重くて、痛々しい。
ウイグル族とは、中国共産党に押さえつけられた、気の毒な少数民族。そんなイメージが、渡航前の私の頭のなかにも、はっきりとあった。
けれど、実際にその地を歩いてみると、頭に思い描いていた弱者と強者の構図は、ずっと曖昧になった。そして、1週間の旅を終える頃には、少数民族を抑圧する主体は誰なのか、わからなくなった。
街を歩く。広々とした道路、整然と並ぶビル、赤い五星紅旗。共産党の意思がこの都市を形作っている——そんな印象を抱きながら、私はあちこちを巡った。
ウイグルは現在、中国人の間で人気な観光地だ。ウイグル族の香辛料がきいた料理を嬉しそうに頬張る人。ウイグル族の伝統衣装に着がえ、スマホのカメラにポージングする人。顔も骨格も違う、言葉も文字も違う人たちが、同じ言語を話し、同じ国籍を持ち、同じ国で暮らしてきた。日本人の私にとって、それはいつまでも不思議な感覚だった。新疆ウイグル自治区を旅する中国人は、自国の文化の幅広さを堪能しているように見えて、羨ましかった。
看板は漢語とウイグル語の併記。街中にはモスクがあり、中国語で客引きをする少数民族の声が聞こえる。道端のベンチでは、現地で暮らす少数民族と思しき老人が、穏やかな表情で外を眺めている。
ぱっと見ただけなら、「共存」という言葉が頭をよぎる。
でも、その風景の奥に、ぴたりと張りついている“違和感”がある。

ショッピングモールに入るたびに必要な荷物検査。ガソリンを買うには身分証の提示が必要で、誰がどのくらい買ったのか、記録される。そんな決まりが、当たり前の顔をして街に根づいている。
ウルムチでは多くの警察官を見た。通りのあちこちに立ち、鋭い目で人の流れを見張っている。けれど、その視線を無視するかのように、地元民と思しき人たちは、どこか慣れた足取りで街を歩いていた。
たまたま私が訪れたのは、イスラム教徒にとって大切な祝日「イード・アル=アドハー」、日本語では「犠牲祭」と呼ばれる日だった。
アブラハムが神に忠誠を示すため、息子を捧げようとしたという話に由来する。多くのムスリムが、この日には羊を屠り、神に感謝を捧げ、祝日を祝う。
けれど、多くのムスリムが暮らすこの場所に、その気配はなかった。祝祭を告げる看板も、人々のざわめきもない。聞くところによると、政府の方針により、新疆内でも一部の都市でしか祝うことが許されていないのだという。
政府は2009年のウイグル騒乱以降、人々が集まるのを恐れている。
警戒と日常、監視と無関心。
この街には、いつも何かが二重に流れている。
「新疆ウイグル自治区」は、やっぱり特別な場所だと思う。
道中、回族のツアーガイドが、自分の電話は盗聴されている、と小さな声で話し出した。暴動にまつわる単語を一言でも言うと、即座に電話が切られるのだ。強制収容所について、誰もがその存在を知っているが、どこにあるか、そこで何をしているのかは誰も知らないという。中国の友人は、彼女のウイグル族の友人が海外留学から帰国の際、空港で携帯を調べられたと話した。インスタグラムなど、海外のアプリが入っているのが見つかると罰を受けるのだという。その罰とは、彼女や彼女の両親の強制収容所収監などを指す。新疆ウイグル自治区に暮らす少数民族は、漢族である私の友人には見えていない中国の側面を知っているのだろう。
しかし、友人に話を聞くと、少数民族はある点で優遇されているという。大学入試の加点だ。友人にウイグル族への印象を尋ねると、「高考(中国の大学入試)で加点されること。まずそれが思い浮かぶね。」と答えた。彼のウイグル族の友人は、少数民族への加点のおかげで、同じ点数の漢族では入れないような良い大学に入れたのだ。
中国には55の少数民族が存在する。去年の年越し、日本の紅白歌合戦にあたる歌番組、春晩では、中国各地と中継を繋いで、リレー式に、少数民族の伝統衣装をまとった人たちが彼らの言葉で新年のお祝いを口にしていた。
融合と緊張。受け入れと排除。
強者と弱者という単純な二項対立でこの土地を見たとき、この地を治める者の思惑が半分、見えなくなってしまうような気がする。
道中乗ったタクシーで運転手は、私が外国から来たと知ると、「中国と海外ではtiktokのアプリが違うらしいね。君たちの携帯に入っているtiktokには、中国政府が見せたくない映像がたくさん入っているんだろう。」と言って、笑った。
自分の国の政府が何を隠しているのか、それを知ろうとしないタクシー運転手の態度に私は疑問を感じた反面、腑に落ちるような感覚もあった。私が何回も中国を旅行し、中国の友人と話し合った今でも、中国社会に対する解像度が一向に鮮明にならない、その原因は「あきらめ」にあるのではないか。強制収容所の存在は知っているけど深く知ろうとしない少数民族の人。ウイグルにまつわる問題が現在進行形で続いているのにもかかわらず、無邪気に彼らの文化を楽しみに旅行する中国人観光客たち。みんなが何かを見ないようにして、平穏な日常を形作っている。
中国の友人はそれを「一党独裁国家とはそういうものだ」と言った。共産党の意思にそぐわない行動をするのは時間の無駄。どうせ社会は変えることができない。それならば、何も知らないことにしてただ安寧に日々を過ごそうではないか。これまで私が見ている中国社会とは、そのような無数のあきらめによって創られたものなのだろうか。
中国人は、自国のニュースで報道されないからと言って、新疆ウイグル自治区の問題について何も知らないのではない。ここの国には気づいてはいけないことがたくさんある、ということを知っているのだ。