「結局ラオス語を3年間学んでどうだったのか」

「ラオス語ってどこの国で話されているんですか。」なんて聞かれてしまうほど知名度が低いラオスだが、私はその言語を4年間学ぶことを高校生の時に決断した。

ラオス語を学び始めて丸3年。常日頃から「どうしてラオス語なんて勉強してるの?」と聞かれるのだが、これは大語科の皆さんも同じなのだろうか?私はそれを聞かれる立場にいて、そのたびに「東南アジアが好きで~」と回答していたのだが、今質問者の気持ちになってみると私の回答はいささか見当違いだったように思える。

 

質問者はきっと、ラオス語を学んでいったい何の役に立つのかを知りたかったに違いない。

 

例えば“南米の宗教事情”について研究している大学生がいたとする。きっとそれを知った人はみんな「なんで南米の宗教事情なんか研究しているんだろう?」って思うだろう。その裏には壮大なストーリーが隠されているに違いない、将来人の役に立つような見通しがあるに違いない、と人は思ってしまうのである。「だから一見生活の何の役にも立たなそうなものを熱心に勉強しているのか!」と納得させたいのだ。

しかしその学生が「南米の宗教に興味があったから。」とあっさり答えた時、人は拍子抜けしてしまう。それだけ???もっと深い理由は!!!と、押しつけがましく質問をしてくる。

単純に興味があっただけなのだ。もちろん私の興味をそそった要素はたくさんあるし、質問をされるごとにそれを説明すればいい話なのだが、そんなに人様が聞いて楽しい話ではないことは分かっている。だから単純に、「東南アジアが好きで~●●に興味があって…」といった濁し方になってしまうのだ。

特に年上の人は、“珍しいことを学んでいるのだから将来はその道の一人者になるのだろう”という独自の価値観を無意識に押し付けてくるが、それもまた鬱陶しい。法学部に行った人は必ず弁護士になり、経済学部に進んだ人は必ず税理士になる。文学部は…国語の先生?そんなことないだろう。

学問が直接何かの役に立つことを願う人々の心理なのだろうか。“興味があったから、勉強してみる”という姿勢や、“面白そうだから、学んでみる”という態度は無意識に軽視されている。3年間外大でラオス語を勉強し、私が学んだことはラオス語だけではなかったと強く思う。3年間で学んだことは多すぎて、とてもじゃないけど一言では表せない。ラオス語はもちろんのこと、ラオス語やラオスの文化を学ぶことを通して見えた世界が大きかった。自分とは異なる言語を専攻する友達との会話内での気づきも多々あった。一つの物事をたくさんの目で見ることで何が正しいのかわからなくなることも度々あったが、そのおかげで批判する癖を身につけた。ここに書ききれないほどたくさんのことを学んだ。だから私は、東京外国語大学とラオス語を選んだことに後悔はない。

 

これから4年間、外大で学ぼうとしている人たちや受験生に伝えたかった。学ぶことに真摯に向き合ってほしいと思った。そうしたら、大きな動機も将来役に立つことも自然とついてくる。