レバノンの反政府デモが、100日目を迎えようとしている。ここ数年で最大規模といわれる抗議活動は全国に広まり、フェスやクラブと見まがうくらい盛り上がったり、下火になったり、過激化したりと、形を変えながらも今日まで続いている。そこには現代的とも言えるデモの性格があるかもしれない。
引き金は予算案、だけどそこには積もり積もった不満が・・・
10月17日、政府の予算案に含まれたWhatsApp などの無料通話アプリへの課税案が引き金となりデモがはじまった。フランスからの独立後1943年以降宗派主義に基づく政治体制を持つこの国では、国民一人一人が18の宗派のいずれかに振り分けられ、議席や大臣など政治的ポストがそれぞれの宗派に割り当てられている。(大統領はマロン派、首相はスンナ派、など)このシステムと、腐敗した政治家と賄賂や不正が蔓延した体制に多くの国民が不満を抱き、課税案がデモ開始翌日に廃止されても尚この不満が爆発した形で続いている。
デモなの?むしろ、フェスみたい
デモ開始の翌日から、人々は首都ベイルートのダウンタウンに繰り出した。ここには国会やモスク、教会が並ぶが、普段は高めのショッピングモールを囲む小ぎれいに整備された街なみで人がたくさんいるということはほとんどない場所だった。タイヤを燃やし、ごみ箱を倒し道路を閉鎖した初夜の緊迫した状況からは打って変わって、この日のダウンタウンに集まった人々はそろってレバノン国旗を手にし、太鼓を持つ人を囲んで歌って踊る。すぐにスピーカーが持ち込まれ国民の団結や革命をうたった曲を流し始めた。人々が叫ぶのは、
” サウラ! (ثورة)”
革命、である。
ただのデモではなく、暴動でもない。今の政治体制を、宗派で分断され腐敗したシステムを根底からひっくり返してやる、という思いのこもった言葉である。
人々が政治に求めることは・・・
ではこれまでにも反政府デモは行われてきたというこの国で、今回の”サウラ”はなぜここまで続いているのか。その特徴から要因が見えてくるかもしれない。ここで注目するのは若者、政教分離、フェミニズムである。
若者の力
ダウンタウンの広場には文字通り老若男女が集まっていた。十字架を首にかけたいかついおじさん、ヒジャーブを身に着け赤ちゃんをつれた若い女性、レバノン杉のフェイスペイントをした学生たち。その中で民衆を率先してスピーカーでチャントを呼び掛けたり、デモの後のゴミ拾いやサウラアートを広場に施すイベントをSNSで呼びかけたりしているのは、若者たちである。自分たちの意見が聞き入れられないような古い体制を変えようという気持ちが強いのだろうか。
宗派を超えて
またこのサウラで人々の間で一つのテーマのようになっているのが、宗派主義への反発である。前述のこの体制により政治は縛られている上、若い世代には無神論を主張する人々も多くあくまで紙上での宗派になっているという現状がある。この制度を廃止し政治的なポストを宗派に関係なく就けるようにすることで真の平等が生まれるという主張である。サウラ2日目にはシーア派、スンニ派、ドルーズ派、キリスト教の宗教指導者たちが手をとりサウラに参加する、という場面もあった。
フェミニズム
このサウラではフェミニズムをポジティブに利用した場面がよくみられる。例えば初日に議員の警備員が人々に銃を向けた際蹴りをいれて防いだ女性が話題になり街中に彼女のシルエットのグラフィティが施されたり、バリケードを超えようとした暴徒をその場にいた女性たちが手をつなぎ鎖となり止めたり。はじめはスピーカーで民衆に呼びかけているのも男性が多かったがそれを変えようとティーンエイジャーの少女たちが集まって自分たちで独自のチャントをはじめたりもした。
サウラの行方
若者が集まり、宗派や性別を乗り越え、暴徒に終わらないこのプロテストはどこか国際化した現代社会の求める像が基準となっているように思える。もとの体制が古く、この理想の真逆のような状態であるがゆえにゴールがほど遠くどこか現実味をおびないようなその落胆を民衆の中に見ることもある。それでも、主張を曲げずに民衆は叫び続ける。
これほどの熱を国民が持ち続けられるのだから、少しでもこの現代社会にあった、すべての人々が住みやすい形に近づく一歩となってほしいと願う。
(文・大竹くるみ)