「ことばの壁」ってなんだろう。
「ことば」は私たちをつなぐはずが、ときにその反対のことをすることがある。
アメリカで留学生の友人と地下鉄に乗ろうとしたとき、駅員さんにこう言われたことがある。
“Does she understand English?”
直訳すると「彼女、英語わかる?」
しかしニュアンスも鑑みると、「彼女、英語わからないの?」の方が近かった。
この発言の数分前。
友人が交通ICの残高不足で改札を通れなくなった。
近くにいた駅員さんにどうしたらいいか二人で尋ねたのだが、友人も私も、その駅員さんの言っていることがよく理解できなかった。
結局わからないまま友人はその場を離れ、一人でチャージをしに行った。
そして件の発言に至る。
このときの駅員さんは、
「アメリカにいるのだから、英語を話せて当たり前でしょ。」
と思ったに違いない。
ちょっと理不尽な話ではあるものの、この駅員さんを一概に責める気にはなれない。
なぜなら、
「日本にいるのだから、日本語を話せて当たり前でしょ。」
そんな会話が、今にもどこかから聞こえてきそうだからだ。
「ことばの壁」ってなんだろう。
話すことばが違う者同士で、うまくコミュニケーションが取れないこと。
本当にそれだけだろうか。
それ以前に「ことばが違う」という理由から人と人がコミュニケーションを取ろうと努力することを諦めてしまい、結果的に生まれる心理的分断。
これもまた「ことばの壁」なのではないだろうか。
私たちは日常で気づかないうちに、「ことばの壁」を生み出していないだろうか。
私は胸を張って「いいえ」と言える自信がない。
私たちは、ことばを使って人と人との間に壁をつくることも、壊すこともできる。
しかし「ことばの壁」が「こころの壁」になってはいけない。
使命感なんてそんな大逸れたものではないけれども、曲がりなりにもことばを学び、ことばを使って表現している立場にある私はそう感じる。
壮大な目標ではあるけれど、「ことばの壁」について考えたとき私は、ことばを使って人と人とをつなげられる存在でありたいと思った。
(文・小林かすみ)