身体じゅうに響きわたる太鼓、風にのってきこえてくる笛の音、近所の公園をかけまわるおかめやひょっとこ達。だんだん大きくなる、エッサ、ホイサの声。たとえ少し遠くだったとしても、見に行かずにはいられない。
運動会ではお囃子の演目があったし、小中学生のときは和太鼓に夢中だった。1000年以上の歴史ある地元の例大祭では、毎年神輿を担がせてもらっている。
祭りは幼いころから、当たり前のようにそばにあった。
だが、「祭り」という言葉で私が懐かしいような誇らしいようなきもちになる原因は、一年中なにかしらを祭っているこの町で生まれ育ったことだけではないようだ。たしかに地元の神社での思い出は数え切れない。しかし、私の祭りデビューはそれらより遥か昔だったのを思い出した。
物心ついたころ、両親が寺に関係のある仕事をしていた。その寺では毎年、偶然にも私の誕生日に、夏祭りが行われていた。寺が一年で最も盛り上がる日だ。住職の子Cちゃんと関係者の子である私とが一緒にお寺内探検をしていると周囲の大人たちがちやほやしてくれ、やたらと居心地が良かったことを憶えている。
「売る」ということを初めて体験した。両手の指と指の間に冷えたキュウリを4本ずつ挟み、看板娘として歩き売りしたり、店番のごほうびに屋台のおじさんからアイスをおごってもらったり。まなちゃんはバースデーガールだから、って少し余計に貰えたっけ。
白地に赤い金魚柄の浴衣がお気に入りだった。その袖に入れていた財布を落としてしまい、寺じゅうを走りまわって探したことがある。当時の私に300円は大金だったから。
和太鼓との出会いもそこだった。めらめらと炎に照らされる、鍛え上げた筋肉。荒く結わえた髪。汗。息づかい。身体の臓器ひとつひとつが震えるような感覚で、演奏が終わってからもしばらく呆然として動けなかった。
つまり、その日は幼い私にとって、ただ「楽しい」「非日常感」に加え、「特別感」、「優越感」、「冒険」もついてくる、天国のような一日だったのだ。今はもうその寺とも祭りとも関わりはないが、たいせつな、幸せの記憶である。