散歩とまちとモノとひと —月替わりエッセイ第24弾


早朝、5時半くらいに家を出て、散歩をする。

ただの散歩。特に変わったことは何もせず、ただその辺を歩いて帰ってくるだけ。
早朝ということもあり、お腹が減って、大概は朝ごはんを食べて帰ってくるが、別にそれが目的なわけではなく、散歩をしたいというだけ。

あてもなくただ自分の行きたい方向へてくてく歩く。
1人で。

2年前コロナウイルスが蔓延し、どこにもぶつけることのできないやるせなさが自分の中にも周りにも広がる中で、家にいるとどんどん気が滅入っていく。日中することもなく(ないわけではない)、ぼんやり過ごしていると、気がつけば昼夜逆転し、外が明るくなっていることが多々あった。
日の出が見たいと、思わず外に出た。

散歩が始まる。

当時は新宿に兄と一緒に住んでいたが、自室から隣の兄の部屋に音が響かないようにこっそり家を出た。
今は荒川沿いのアパートに1人で住んでいるが、どうしてか新宿のときと同じように、こっそり家を出てしまう。

散歩、所詮はただその辺を練り歩くだけだが。
それは目的地を決めてそこに向かうことではない。

移動のためにあるのではない。そうではなくて、歩くこと、周りの風景、まちに溢れるモノを楽しむことのためにある。

散歩をするにあたって、僕が持っていくものは4つ。イヤホンとコインケースと携帯、そしてカメラ。
早朝に散歩するメリットは、外にあんまり人がいないことにある。あとなんか気持ちいい。
人がいないと、写真が撮りやすい。時々立ち止まって、なにかを撮っても気にする人もいない。
(思うに、日中でも別に写真を撮っていても誰かにとやかく言われる訳ではないだろうが、どこか視線が気になってしまう、僕の場合は。)

早朝を二人で散歩するおじいちゃんとおばあちゃん

まちにあふれるなんでもないような風景を写真に撮っては、歩いて、ごはんを食べて帰る。
カメラを持って歩くと、無意識にでも被写体を探すようになる。別に写真に納める必要はなくて、普段の移動では気にならないものに気を止めれればそれでいい。


軒先にいた、まともな犬と気が狂ったように見える猫


歩いて出会うモノたちは全て人が置いたのであって、それらを通じて僕は見えない人と通じ合う。

これを置いた人は何を思ってここにそれを置いたのか。なにかの意図があって置いた訳ではなくとも、片付けられない限りはそのままそこにあり続けるのであって、出会ってしまった僕はなにか情緒的なものを感じてしまう。

モノの先に人が居て、彼らは自分とは違う別人であり、それでいて同じまちに住んでいる。

工事現場の壁に描かれたキリンの絵、柱の先に付いたウサギの像、雪に埋もれた雪だるま、どれも見知らぬ人がつくったモノだ。喋ったことも会ったこともなければ、顔も知らない人が作ったそれらを、僕は自分の目を通じて感じられる。

要は想像である。世界に生きてる人が自分だけじゃなかった、っていうただそれだけ。

家に1人で塞ぎ込んでいると、本当に気が滅入る。どんどん周りが見えなくなっていく。

最近は浄水場みたいな大きな建造物や橋にまでそういう想像が働く。あとはポイ捨てされた缶なり、ゴミなりにも。街に溢れるあらゆるモノを、人が作っていて、その奥にそれぞれの想いや気持ちがある。自分と同じように生きている人が残したそれらの中に。

映画「転々」を見た。

予告編的な内容説明は省くが、大学8年生役のオダギリジョー(めちゃくちゃかっこいい)が借金取り役の三浦友和と一緒に吉祥寺から霞ヶ関まで散歩する映画。2005年あたりの東京がそこにはあって、(それがどこまで作られたものなのかは知らないし、知る由もないが)同じ東京を生きる2022年の自分にはすごく新鮮に思えた。洒落た若者が闊歩するような、今の住みたい街としての吉祥寺は映画の中には無くて、寂れているというかそれでもどこか人情味あふれる下町のように見えた。

そういう過去の街並みを、映画の中ではさらに回顧する。今→映画に映された「吉祥寺」→三浦友和の記憶の中の「吉祥寺」へと、過去へ過去へと世界がつながっていく。

まちは移り変わっていく。まちに住むのは人であり、作るのもまた人である。変化の奥には大勢の人が居て、そこには自分と同じ一人ひとりの人間がいる。歴史に名を残す偉人によってではなく、そこに生きる市井の人間の日々の営みによってまちは段々と変化していく。

今を生きる自分が過去に思いを馳せるとき、それは過去を生きた人を思うことと同じであって、人がつないだ今の世界を今度は自分がつないでいく。手段は問わないが、生きる理由はそこにあると思う。

まちもモノも過去も同じで、映画も散歩もそれを通じて人を想像することには変わりない。

ぼーっと東京に住んでいると、自分が止まっていても、周りが忙しく動いているせいで、せわしなく世界が回っていることを否応なしに認めざるを得なくなる。別に止まっていようが進んでいようが、自由なはずなのに。どこか成長を強制されているような感覚。止まりたくても止まれない。

散歩は自由だ。目的地もなく、制限される時間もない。右に曲がろうが、目の前のおばあちゃんに話しかけようが、なんなら途中で自転車を借りてもいいし、本当になんでもいい。

そういう自由な世界線に今の自分が、そして自分とは違う誰かが、生きていることを散歩が呼び覚ましてくれる。失われていく日常を、まちを歩くことで思い出す。

(文・伊藤開人)