昨日までじりじりと照りつけていた太陽は、重たい灰色の雲にすっかり場所をゆずってしまったようだった。
「出かけてくるね」
と言うと、パトリシアがびっくりしたように目をまるくした。
「出かけるって、外はこんなにひどい雨なのに」
雨だからだよ、と笑えば、「あなたはほんとうに雨がすきね」と肩をすくめられた。
いってきますのチークキスを交わして、街に出る。
海外なんてあぶないからやめろと言ったあのひとは、知っているのだろうか。
東京にも、この街にも、ひとしく雨は降るのだということを。
日本から飛行機で24時間。
なにも変わらないわけじゃない。それでも、びっくりするくらい変わらないこともある。
だって、たかが地球の裏側だ。ちきゅうの、うらがわ。
一歩踏み出すたびに、ぱしゃん、ぴしゃん、と足元で水がおどる。
街路樹から落ちた葉が、水たまりのなかでゆらりと身をひるがえした。
ブエノスアイレスは、あまい香りがする。
とりわけ、雨が降った日には。
レコレタ地区で一番人気のパン屋さんからは、芳醇なバターの香り。
曲がり角のちいさなカフェからは、やさしいミルクジャムの香り。
ギターと自由を愛する友人がくわえる白い煙草からは、くすんだバニラの香り。
しっとりと湿った空気にからめとられて、街全体があまく、あやしく香り立つようだ。
透明なビニール袋を広げてみる。
この香りを詰めて、日本に持って帰れたらどんなにいいだろう。
日曜日の香水にぴったりだ。
あまいものに目がない友人たちのおみやげにしてもいい。
ああ、それから、小さなディスプレイに世界のすべてが映っていると信じてやまないあのひとにプレゼントするのもいいかもしれない。
そうしてこう言ってやるのだ。
「どう、グーグルアースは、あなたにこの香りを教えてくれた?」
って。
(文・三橋 咲)